Monday 21 January 2019

『俺のケバブ屋はイスラムについてのポジティブなイメージの発信所だ』


元サイトはこちら。ラジオインタビューの書きおこし記事です。
"My Czech kebab shop is an embassy for a positive image of Islam"10-02-2015 13:27 | Dominik Jůn

 

 

『Amisん家(「だちの家」。店主のAmis Boussad氏の店という意味と引っ掛けで)』(Chez Amis)はアラブ/オリエンタルの食材を扱う食料品店でもあり、同時にケバブやファラフェル(ひよこ豆のコロッケ)やフムス、クスクスなんかを売るスタンドでもある。

 

 

プラハ中央のスパーレナー通り(Spálená)にあるこの店はアルジェリア生まれのAmis Boussad氏が切り盛りしている。今回は彼の店で四方山話も含めて、チェコでのムスリムの生活について快くインタビューに答えてくれた。


Amis Boussad:もうこの場所に住みはじめて21年になるな。やってきたのは1994年の7月だ。ここで店を開き出したのが2003年の9月5日だな。

インタビュアー:ずっと同じ場所で?Chez Amisはずっとここにあったのかい?

Amis Boussad:ああ。この仕事でここに11年いる。チェコ自体には21年になるな。

インタビュアー:多分、貴方が初めてチェコに来た当時、その当時のチェコは閉じられた共産主義社会だったわけだから、アルジェリアからやってきてケバブを売っているなんていう人間は、もちろんチェコ人にとっては完全にストレンジャーだったんじゃないかなと思うんだけど。

Amis Boussad:おっしゃる通りでさ。この仕事を始めたとき、俺ははじめほんの少し悲観的だった。というのもチェコ人は俺の売るフード、あるいは俺の店、そして俺個人の人格について何も知らないわけだしな。だけど1年半か2年間かけて、俺は十分な顧客を見つけたし、彼らに俺たちの食事を売買を通じて教えてあげた。そしてケバブスタンドを切り盛りしながら、3年か4年後にはオリエンタルの食材を欲する客たちがやってこれるような店へとシフトしていったんだ。これは俺の顧客開拓と知識の伝授の結果だ。

インタビュアー:店内を見回すと、様々な種類のコメがあるし、お茶も種類が多いし、ナッツもでかい袋入りのものが多数あって、ひよこ豆に、ソースに、インドの食材もあれば...

Amis Boussad:エッグプラントペーストもあるぜ!

インタビュアー:21年もプラハにいるわけだけど、固定客層をちゃんとつかんだってことかい?

Amis Boussad:この店は、北アフリカそしてオリエンタルの食材のみならず、その精神性についても学び、理解してもらうための重要な役割を担ってると思うんだな。もちろん人々と出会い、語り、つるむことができる憩いの場ってことなんだがな。そう考えるならば、俺たちの仕事ってのは単に物を売るってことにとどまらず、喜びや娯楽を提供する空間の運営ってことでもあるはずなんだ。

インタビュアー:どうしてアルジェリアを離れ、チェコに来ようって決めたんだい?

Amis Boussad:正直な話、俺が今ここ、つまりチェコにいるってのは純粋に偶然、成り行きだね。だけれども偶然ってのはしばしばいい結果や方向性を示してくれるわけだ。本当は、カナダに勉強で戻る途中に立ち寄っただけなんだが、最終的にはチェコにとどまることを決めたんだ。

インタビュアー:旧/元共産圏だったヨーロッパ諸国というのは多民族、多文化、そして宗教的な多様性を備えた国だとは現時点においても言い切れないわけで...

Amis Boussad:もちろん、将来においては変わってくれることを願うね。

インタビュアー: 現時点では貴方は自分自身がアウトサイダーとか、あるいは好奇心を煽る存在、そういったものであると感じたりしてはいないかい?

Amis Boussad:個人的には、俺はプラハもチェコも大好きだ。時には俺はチェコ市民だとさえ感じたりもする。特に人種とか文化や宗教といった障壁を感じたこともなかったし、ここに居続けることに危機感を感じさせたやもしれない不幸や問題、それに類することを抱えてさえいないよ。

インタビュアー: おおむね、幅広く受け入れられてきたというわけだね。

Amis Boussad:間違いなく、そうだ。そう思ってもらっていいよ。ここにいれてうれしい。

インタビュアー: チェコでアルジェリア人であったり、あるいはムスリムであるがゆえの外人恐怖症に類するものを経験したことはあったかい?

Amis Boussad:皆無だな。多分だけど、お客さんとのやりとりにおける俺たちの態度、その丁寧さや真摯さが、チェコの人々とのいい関係を保つのに役立ってるんだと思う。そうしたものに出会ったことは一度たりともないよ。

インタビュアー: あるチェコの過激な泡沫政治家トミオ・オカムラが、つい最近、イスラム教徒は排斥対象にすべきであって、ケバブストアをその発端として追い出すべきだと主張してるらしいんだが、知ってるかい?

Amis Boussad:まじで言わせて欲しいんだけど、そういった人々が語ることにはそもそも耳を傾けたくもないね。もちろん思ってることをいう権利はあるわけだが、俺は彼らと同じ土俵に立つつもりはないな。だから沈黙させてもらうよ。単に彼が俺に向ける振る舞い、下品な振る舞いよりもましな振る舞いをしたいだけだ。なのでオカムラは好きなことを好きにいえばいい。だけれども、だからといってチェコのみんなが彼のいうことを聞くかどうかは別の問題だし、彼の言うことが正しいかどうかもまた別の問題だしな。もしある種の集団が反イスラム的な示威行為へと向かったとしても、彼らを咎めることは別にしないよ。別にやつらはやつらのしたいことをする権利があるしな。誰もがしたいことを自由にすることが許されていると俺は思う。だれどもチェコのみんなが彼らのような極端なイデオロギーに喜んで従うとは俺は思わないんだ。

インタビュアー:数百のチェコ人が文字通り反イスラム的なデモを実際に行っているのを見て、どう感じるんだい?

Amis Boussad:これはいっとかなきゃなんだけどさ、この前の土曜日に、9人か10人くらいの集団が店にやってきて、みんながケバブを一斉に注文したんだ。だから聞いたよ、『君等が一斉にケバブを注文するのはどうしてなんだ』と。そしたら彼らは『旧市街広場で「イスラムはいらない」と称する反イスラムデモが行われてるからだ』と答えた。だから彼らは反イスラムデモへの対抗行為を組織するために私の店にやってきたんだそうだ。私は本当に...いや、あれには驚いたよ。チェコとは全ての文化を受け入れる国なんだという考えを守るために、冬の寒い中、40キロ彼方からやってきたやつもいた。こういう行為って、とっても重要な振る舞いだろ。

そうした反イスラム的なデモをする人々というのは1000万とか1100万人中で4000から7000人だそうで。これはとても少ない割合だ。なので、別にこうした示威行為やデモによって反イスラム的なものを示せているとは俺は思わないんだ。付け加えれば、彼らのデモ行為によってここでの私たちの生活や仕事が影響を受けることはない。反イスラム的なことを考えている人と出会ったら、イスラム、つまりはムスリムとはどういう人であるかを彼らに見せてやる必要がある。そしてイスラムとは、彼らが思っているようなものとは全く異なるものであることを示してやらねばならない。彼らはイスラム=テロリストの宗教と考えている。だが、それは全くもって違う。反イスラム的な類いのデモを見るたびに、本当のイスラムとはどういうものであるのかをもっと本気で示していかねばならないのではないか、チェコの人々やお客さんともっとうまくやっていかねばならないのではないかと感じることがままあるよ。

インタビュアー:ということは、貴方はこの店をそうした考えの派出所、発信基地とある意味ではみなしているってことかい?つまり、様々な考えや印象をもっている人々がやってこれて、そしてイスラムについてポジティブな経験をもてるような場所として。

Amis Boussad:一つだけ言っておこう。これはイスラムの民にとってとてもいい宣伝効果をもたらしたんだ、実際には。だって彼らが「ケバブ食うのやめろ!」と言ってくれた結果、その反動としてケバブが売れまくったんだよ。

インタビュアー:フェイスブック上に幾つもの反イスラムグループ、あるいはそれに抵抗するグループができて、ケバブを食べるな/食べよう的なキャンペーンがはられて、勝手に動いてくれた結果として、チェコ人が個別にやってきて、ケバブを食べていってくれるという。

Amis Boussad:そうさ、「ケバブを食べるのをやめよう!」と彼らがいった結果として、ケバブ販売の量が増えてるんだ!彼らが「ムスリムのお店に行くのをやめよう!」と唱えれば、ムスリム系のお店の回転率があがりまくってるんだ。

インタビュアー:宣伝ってことになってるんだね...なんか本当にねじれた仕方ではあるんだけど...

Amis Boussad:オカムラは自分がなにをいっているか、ちゃんと考えるべきだと思うよ。そして自身のイスラムやムスリムについての見方をしっかり精査すべきじゃないかな。心配することはない、別に俺たちがここに来たからといって、チェコの人々が仕事を奪われたなんてことはないんだよ。俺たちはチェコ人がしたくはない仕事、やりたくない仕事を積極的に請け負ってやってるんだからな。それにここでケバブを俺たちが売っているという事実はとても素晴らしいことだと俺は思ってるんだ。10年、いや14年前、ケバブはもちろん、ファラフェルもフムスも売ることはできなかった。20年前なんて、そもそも餓えきっていた。だって日々、チーズと野菜しか食うものがなかったんだよ。

インタビュアー:というのも、そもそも材料含め、手に入れること自体がプラハにおいては当時は難しかったからだね。

Amis Boussad:そうさ、だけど今ではプラハは様々な文化でごった返している街だ。インド料理、ケバブ、あるいはアラブ料理を食べたいならば、なんでもござれだ。美しいじゃないか!プラハは今でこそ美しい。ロンドン、パリ、フランクフルト、ニューヨークへ行ってみなよ。どこでも、この種の美しさにあふれている。これこそが人生だ。何でも見つかり、そして手に入るんんだ。これこそが、まさにアメリカを強国にした一つの理由だと思わないか。

インタビュアー:多様性...

Amis Boussad:アングロサクソンたちの成功した事例に俺たち(ムスリム+チェコ人)ものっかるべきじゃないかな。神はそれぞれを互いに愛するべくつくったのであって、一緒に喧嘩せずに生きていけるはずなんだ。キリスト教、カトリック、ユダヤ教にムスリム。相互が喧嘩するために神は俺たちを作り出したわけじゃないと思うんだ。

インタビュアー:貴方の仲間のムスリムの経験をふまえても、貴方の仲間たちもプラハ、あるいはチェコに住んでいて幸せだと貴方同様に感じているといえそうかい?

Amis Boussad:嫌がらせとか挑発に類する被害は聞いたことがないな。安定して安心できる状況にいると思ってる。マスメディアの中でムスリムについて語られていることであったり、人々がムスリムについて語ってるってことだって俺たちは知ってるけれどもさ。だけど事実として個人的に、あるいは具体的に攻撃されたり、侮辱されたりって事件は一度もなかったよ。

インタビュアー:つまりは基本的にはチェコは寛容な社会だと貴方は思ってるってことだね?

Amis Boussad:ああ。個人的にいわせてもらえば、イスラム排撃に代表される過激で極端な考えってのは流行病みたいなものさ。

インタビュアー:そしてドイツのような国においてはムスリムコミュニティの中にある種の過激な少数派が確認されるという事実とは対照的に、チェコのムスリムの人々のうちには過激派や極端な主張をする人々はまったくいないとも言われてきたよね。もし分かる範囲でなにか意見があるならば、どうしてチェコにおいてはそういう極端な過激派がムスリムコミュニティから生まれてこないのか教えてもらえないかい?コミュニティに不満分子や不平といったものが堆積してないからなのか、それともチェコの若いムスリムはある種の(世界の現状や状態に対する)幻滅みたいな感覚にやられてないってことなのか。

Amis Boussad:俺に言わせるなら、過激派とか極端な主張をしたがる奴はどの国にだっているだろうよ。ムスリムな国においてさえ、いるんだからな。ゆえに過激派とか極端な主張をする人々の存在というのはムスリムだけの問題じゃない。もっと一般的な問題なんだ。俺の考えでは、人間はどうやって他者を理解すればいいかの方法を正に学ばねばならない時なんだよ。つまりはお互いが共存して生きていく方法ってやつをな。

インタビュアー:移民の仕事ってのはかなりの重労働で、長時間労働だってよく言われてるけど...

Amis Boussad:もちろんだよ!チェコ人が移民と同じくらいハードに働くと思うかい?答えはノーだ。今後だって絶対にそんなことは起こりえないだろうな。ゆえに彼らは俺たちのやってるような仕事をしようなんて思わないだろうよ。チェコ人がしたくないような類いの仕事を、彼らのために俺たちがやってるんだ。仕事があってうれしいよ。幸せだね。

インタビュアー:最後に回転するケバブの音でインタビューをしめさせてもらってもいいかな(回転ケバブの音が聞こえる)。これはまずは生で準備されてて、焼いて行くって理解でもいいかい?

Amis Boussad:ああ、自家製でつくってるんだ。

インタビュアー:チェコでも材料が手に入るからだよね。

Amis Boussad:そうだね。新鮮な生肉を買って全部調合してから、一晩漬けて寝かせるんだ。次の日に肉を全部このかたちに機械の中で積み重ねて、火であぶり回転させる。そうすれば...

インタビュアー:まだ生焼けだけど、回転し出してるわけだから、1、2時間くらいでできるって感じなのかな?

Amis Boussad:30分ちょっとくらいだね。

インタビュアー:それはすぐだね。とはいえ、今日はインタビューを受けてくれて、どうもありがとう。

Amis Boussad:こちらこそ。

Friday 18 January 2019

MM誌に寄せた評


BUDDHA BRANDベスト盤評

 BUDDHAの特徴は①コンペティションという現在時の美学、②その追求において獲得されたライム表現、③アーカイバルな知性に支えられたビートならびにトラックである。

 まずヒップホップをコンペティション、つまりスタイル間の闘争と捉えていた彼らはボースティング、ディス、サッカーMCものにトピックを終始させる。スキルと技量だけでゲームのあり方をひっくり返そうとするライムは問答無用に相手の耳を乗っ取り、恍惚や快楽、忘我へと拉致する。その力の実体は誇張法である。あの手この手でボースティングを行い、ディスを続ける中で溢れ出す熱量は巧みかつ奇抜な技術を通じて次々と言葉をハレーションさせ、ライムに過剰さや途方もなさ、突拍子のなさを持ち込む。相手を打ち負かすために誇張され続けた否定の言葉がユーモラスで異形な言語表現へと反転してゆく力学こそ彼らのライムを貫く特徴であろう。

 一方でこうした闘争への意志は「現在・今・ここ」における現在時の塗り替えに賭けられている以上、不断に過去へ押し流されるはずだ。作品の教科書化やクラシック化という現象はコンペティションの原則上、乗り越えられたか、古いものとして現在・今・ここのラップゲームから追出されたことを意味してもいる。だが本作で貫かれる現在時の美学は古さと一切無縁だ。なぜか?

 それはサンプリング・スポーツの結晶というべき美しさを響かせている楽曲に理由がある。サンプリング、つまり音を分解し組み合わせて更にドープに格好良くするコラージュ感覚こそヒップホップの本義だと確信していたD.L.にとって過去とは何よりも素材を提供するデータベースであった。アーカイバルな知性であった彼はメンバーと繋がる以前からNY中を隈無く巡回してレコードを収拾し、音要素を掘り当て、ドープという審美基準とデータベースを更新し続けていた。そして後に彼の脳内に鳴り響く音像がマニピュレーターやビートメーカーの助力でトラックとして出力されたのだ。

 そこには過去の断片たちが彼なりのコラージュ感覚と審美基準で縫合されてミイラのように蘇った奇跡がある。その奇跡は「現在・今・ここ」とは無縁の時間をタイムカプセルのように漂い、未来において何度も再生され、時には再度バラバラに解体されることもあるはずだ。過去と未来が循環する回路の中を走り抜ける現在時の美学が古さと無縁であることも今や自明だ。

 企てがたい稀有さに満ちた本作はいつでも再生され、発見され、解体されることをまっている。

NORIKIYO『OUTLET BLUES』評

 対象と直に触れ合うとき見える/見えないを区別していた対象との距離は消えてしまい自身の立ち位置さえも分からなくなってしまう。性行為、犯罪、人生。
 
 手探りで転がり続ける理由は暗闇の中にいるからではなく対象との距離の不在にあり、無我夢中な不格好さが美しさを帯び出すのはこの不在の時を爆音で駆け抜けようとする無謀さのせいだ。

 一人称しかない街で言葉のナイフを手に距離を失った世界の表皮を削り出そうと四苦八苦する嘆きとも自嘲ともつかぬ本作のさえずりは聴く者からは決定的に遠い。君が死のうと死ぬまいと俺は生きると言い切る極上のエンターテイメント。

LIBRO『胎動』評

 微小な言葉の粒が瑞々しくもこの世界へと降り注ぐとき。しなやかな雨の軌跡は散文となり「雨降りの月曜」を伝えるささやかな回路をつくり出す。
 
 決してショートすることも熱に駆られて暴走することもなく韻律の回廊をのびやかに駆け回るリリシズムは都会の喧噪を生きる少年のリズムが平熱を越え出ずとも鮮やかに感情を切り取れることを証明した。
 
 S.L.A.C.K.につながる日常と地続きなB-BOY文学の決定版。

GAGLE『3MEN ON WAX』評

 アナログと電子音が織りなす非人称的なバトルフィールドを横断したブルージーな言葉は幾何学的な結晶となり、極小の重みを担う。一人称の意固地さではなく諺のように万人が担う「雪の革命」の軽やかな重さ!

Wednesday 16 January 2019

Rose Randについて(その一:人生編)

  • Hamacher-Hermes A. (2003) Rose Rand: a Woman in Logic. In: Stadler F. (eds) The Vienna Circle and Logical Empiricism. Vienna Circle Institute Yearbook, vol 10. Springer, Dordrecht
  • Rentetzi M. (2009) ‘I Want to Look Like a Lady, Not Like a Factory Worker’ Rose Rand, a Woman Philosopher of the Vienna Circle. In: Suárez M., Dorato M., Rédei M. (eds) EPSA Epistemology and Methodology of Science. Springer, Dordrecht  
  • Giuseppe L. (1997) Deontica in Rose Rand. Rivista internazionale di filosofia del diritto 74, pp. 197-251.
以上の三つの論文を読みました。

ウィーン学団の最年少に近いメンバー(一般的には公聴人としてある時期の会合の議題内容の速記(*1)をとっていた秘書的存在とみなされてきた)にして哲学者、論理学者。性別、人種といった様々な属性とともに時代の趨勢に巻き込まれる形で研究者として公的なポストに着くことはできなかったRose Rand(ローゼ・ラント)。ピッツバーグ大学のアーカイブに収蔵されている彼女の様々な史料や文章、公的・私的書類に近年アクセスできるようになり、研究が進められているようですが、おおよそ知られていない彼女とは一体どのような人物であり、どのような遍歴を経たのか、そしてまたどのような仕事を残したのか、簡単にまとめておきます。今回は履歴を中心に。

 Rose Randは1903年に現在はウクライナのルブフ(リヴィウ)生まれ(当時はオーストリア帝国下レンベルク)。第一次世界大戦終了後にポーランド領になった時点でユダヤ人のディアスポラだったルブフからウィーンへと移住する。

  ウィーン大学の哲学科に進学したのは24年(671人(全学生のうちの35%/赤いウィーンと呼ばれた社会民主義的気運のもと女性の進学率を高める政策がとられていた)中の1人)。Robert Reininger、Moritz Schlick,、Hans Hahn、Heinrich Gomperz、Rudolf Carnapといった面々の講義に出席する一方で、Karl Bühlerの論理学ならびに心理学の講義にも参加。また副専攻で物理学を修める。

 この当時、オーストリアでは社会民主党が政権を担い(1918年から34年まで)「赤いウィーン」と称された都市計画のもと、公共福祉、住環境の整備、学術の振興などを巡る民主的施策がとられていた。この気風の下、多くの知識人のサークルが活発に活動をし、特に独で高まりつつあったナショナリズムへの対抗意識を一つの共通戦線として自由な政治活動と学問上の革新運動が手を結んで歩みを進める現象が起こっていた。その中の一つがウィーン学団であった。

 主要メンバーはMoritz Schlick、Rudolf Carnap、Viktor Kraft、Hans Hahn、Felix Kaufman、Kurt Reidemeister、Philip Frank、Otto Neurathといった面々。彼らの経験主義、科学主義を前提にした「哲学をどのように遂行していくか」を巡る反形而上学的な討論傾向は当時のウィーン大学を覆っていたキリスト教神学とドイツ観念論を中心とする保守的な学術思潮と真っ向から対立していた。学団はシュリックがウィーン大のポストに就任した1922年に創設、24年前後から定期的な会合をもち、互いの哲学的関心や研究の進展について議論を行う場となる。Randはこの定期的会合に唯一定例参加者メンバーとして名前が記録されている女性メンバーであった(彼女以外にも数学者でNeurathの妻となるOlga Hahn(Hans Hahnの妹)や代数的整数論で名を残すことになるOlga Taussky-Todd、心理学者Else Frenkel(Karl Bühlerの弟子)なども何度か参加していた)。

 Randはすでに20年代後半からSchlickに許可されて学団の私的な会合に出入りが認められていた。28年に哲学で学士号を修得後、家庭教師や後述の診療所での仕事、ポーランド人(後述するがLW学派の面々)が書いた論理学の論文翻訳をSpringerに売り込むなどといった仕事で生計を立てつつ、博論の主査となるRobert Reiningerに才能を称賛され、論文準備のためにLW学派のTadeusz Kotarbińskiの科学哲学に関する著作の研究を開始する。33-4年にウィーン学団の会合で研究の進捗に関する講義を何度か行う。36年にクラクフの哲学会議に一般参加し、今日的に言えば義務論理(deontic logic)や問答論理(erotetic logic)に類する議論(命令や欲求、質問といったいわゆる言語行為的な発話表現の振る舞いを表現する論理体系を通常の体系から類比的に作り出せるかという問いについて)を学会発表、同年ポーランドの雑誌に発表要旨の掲載(*2)。37年に博論執筆原稿の中から一部を分割掲載(*3)。38年に博士号を取得している(*4)。この間、30-7年にかけて上述のKarl Bühler関連の心理学研究グループとも深くコンタクトをもち、心理学や精神科学、精神分析についても研究を行うと同時に、特に精神疾患や(今日的言葉で言えば)メンタルヘルス関連の診療所において患者のケアや診療、診察などに従事し、臨床系の優れた才能を発揮していた。

 しかし1938年のドイツによるオーストリア併合、そしていわゆる強制的同一化の流れの下、ユダヤ人だったRandはNeurath、Frank、Carnapといった面々のレコメンデ―ションレターのもとでアメリカ留学に向けて奨学金を申請するが失敗。この時期、Leśniewskiの論文草稿の翻訳ならびに紹介を試みたり、36年にクラクフで発表した義務論理に関する論文を切羽詰まった状況下でCarnapからのアドバイスを受けつつ完成させる(*5/後に英語バージョンがSyntheseに(*6))。この論文は義務論理の出発地点とされているVon WrightによるDeontic Logic(51年)に12年先行するものであった(として今日的には義務論理研究者に評価されている)。その後、Neurathならびにウイーン学団とつながりのあったSusan Stebbingの助力で39年に英国への亡命を余儀なくされる。以降、Neurathが急逝する1945年まで折にふれ身辺事情の相談を中心とした書簡のやりとりが行われている。

 英国でアカデミックポジションを探すもうまくいかず、奨学金もウイーン学団の面々から推薦を受けるも手に入らず。生活のために看護士と工場労働に従事して食いつなぐことになる。 困窮が極まり、夜学校でドイツ語と心理学を教える仕事も増やし、ポーランド語の文献やドイツ語の文献の翻訳を出版社に売り込むことで生活を続ける。その間も哲学や論理学の論文、あるいはLW学派の論文紹介といった学術研究は続けられた。例えばLeśniewskiの翻訳に関するコンサルテーションの関係で博論で扱ったKotarbińskiと知己を得たり(39年)、Wittgensteinについての講義をOxfordで行ったり(41年)。またモラルサイエンスクラブの会合にも定期的に参加し、Wittgensteinの講義にも参加し続けていた(40-43年)。しかし43年についに生活を続けるための労働の苦労と研究活動の狭間で心身を壊し、入院を余儀なくされる。

 この時期の彼女の中心的な仕事は朝8時から夕方6時まで工場で部品の検品を延々とするものであった。時間がほぼなく己の研究ができなかったことに辛さを感じていたのか NeurathがCarnapの著作でRandが言及されていることを伝えてきて、何かコメントを出してはどうかという手紙での提案に対しても「ほんの少しのことならば、あなたがそれを求めるならば、何か書きます。なにかの(学術的な)立場にいれば私は哲学について専心できるはずです。でもそうした欲望も今では自ら押しつぶしています」という応答しかできない状況であった。こうした状況下でもWittgensteinはRandに工場労働を続けるように忠告していた。その理由は彼女が英国で学術ポジションを得ることは難しいと理解していたからでもあり、同時に哲学で生きていくということに対する(彼の弟子全般へのものと同じ)警告の意味でもあった。他方で彼女は「戦争が終わり平和になりWittgensteinとの学術的な関係が続く限りは哲学とはまだつながっていけると思う」といった類の文面をNeurathに送っている。しかし、この書簡のやり取りも45年Neurathが亡くなる5日前に彼女に送った「どんなものでも最近の著作や論文に関して書いたものがあれば雑誌にかけあうのでいつでも送ってくれ」という言葉を最後に終わることとなる。

 54年にアメリカに移住するが既に51歳になっていた彼女を雇う大学はなかった。その間も研究や学術翻訳には熱心な態度で臨んでいた。しかし散発的に続けられたLW学派のŁukasiewicz、Leśniewski、Kotarbiński等の著作や論文翻訳の出版プロジェクトは1956年に金銭的理由と出版社との契約の失敗によって一旦頓挫することになる(英国滞在時からかけあってきた現在のElsevierにあたるNorth-Holland Publishing Companyとの契約に失敗)。また渡米後は大学の非常勤の職もみつけることができず、55-56年にUniversity of Chicagoにて数学を教えたものの、1957-9年の間はNotre Dame Universityで(ほぼ無給の)研究員となり、頓挫した翻訳プロジェクトを継続すべく奨学金を幾つかの学術団体に応募する日々となる。

 そのような日々の中で1962年にKotarbińskiのゲストとして4カ月ポーランド科学アカデミーの研究員としてワルシャワに滞在。滞在期間中にFregeの論文(*7)の翻訳、前述した義務論理の論文の英訳(*6)などを集中的に行う。またŁukasiewicz、Leśniewski、Chwistekなどの著作を整理し直し、Fregeに始まる論理学の歴史の別の水脈としてポーランドの論理学の歴史を描こうと矛盾律、排中律、多値論理の関係についてまとめ、「記号を何かを表現する道具ではなく、記号それ自体を対象とみなして、その振る舞いを哲学の観点から分析する」営みを描くべく、翻訳プロジェクトの申請を行っている。

 こうした彼女のプロジェクト申請や研究費獲得の試みを支えていたのはPrinceton大学でギリシア哲学、特にソクラテス、プラトン研究を行っていたGregory Vlastosであった。もともとWhiteheadを指導教官とし、分析哲学の方法論を修得した上で古典研究を行っていたVlastosは特にŁukasiewiczによる著作『アリストテレスの矛盾律』の理解と翻訳において彼女を議論の相手として重宝していた。Vlastosは彼女の能力を高く評価しており、また当時のアメリカの哲学界において(Tarski等ダイレクトな関係者以外で)ポーランド語と論理学の双方を学術レベルで厳密にかつ批判的に運用できる人材がほぼいなかったという事実もあり、彼女の研究を積極的にサポートしていた。

 Randは1968年にプロジェクト形式で進めてきた学術作業の総決算にのりだす。Łukasiewicz、Leśniewski、Kotarbiński、Chwistek等を比較検討して、翻訳とともに紹介するはずだった多値論理についてのプロジェクトの内容紹介ならびに翻訳を雑誌に発表(*8)、同時にJournal of Symbolic LogicにてŁukasiewiczやSłupeckiの著作レビューを7本発表。結局、彼女自身がオリジナルで残した論文は初期の義務論理に関する論稿1本(とその英訳)、Kotarbińskiに関する博士論文からの分割掲載が1本、そしてこの最後の多値論理に関する翻訳の前書き1本の計3本であった。

 1980年に77歳で亡くなるまで研究自体を止めることはなかったが、他方で生活には苦しみ続け、低額ローンに薄給の研究費、一時的なパートにフリーランスの翻訳仕事などを繰り返す中で生涯を終えることとなった。
 
 上述論文の著者RentetziはRandの哲学者としてのキャリアが流された理由として①学団のメンバーの多くがすでにキャリアを積んでいた一方で、後続をどのように育成するか(教育)の側面において必ずしもサポータティブではなかった件、②女性のユダヤ人の亡命者であった件、③赤いウィーン期の心理学研究グループや学団がもちあわせていた女性の社会進出に対する進歩的な雰囲気と英国における階級的問題が醸し出す閉鎖性のギャップに打ちのめされた件、そして④彼女の性格の難しさなどをあげている。②は確かにそうだろうなと推察できます。また③は社会構造の問題ゆえに②に限りなく近いはずです。残りは①と④ですが、学団も学団でドイツの侵攻によって文字通りバラバラにさせられたことを鑑みると(もちろん研究優先主義だったことも事実だとは思うんですが)決定的な要因とも言い切れない気がします。またNeurath個人の資質によるものとはいえ皆が皆サポートに冷淡であったわけではなく、むしろ英国へ渡ってからの15年ほどの間でウィーン期とは別に学術的な結果をダイレクトには表現できなかったことも一因なのかもしれません(もちろん工場労働をしつつ、講義にも参加しつつ、心身を壊しつつ、亡命しつつといった複合要因の中にいたことも事実ですが⇒ここら辺は彼女のWittgensteinに関するノートや発表原稿を細かく検討してみる必要がありそうです。つまり「英国期はRandにとってどのような意味をもっていたのか」という視点で)。

 素直に考えればオーストリア併合によって亡命せざるをえなかったキャリアをまさにこれから積み上げてゆこうとしている博士号取得直後のユダヤ人女性という属性、そしてポストの少なさこそが最大の要因なのではないかと思います。ただし、もし彼女が英国ではなく米国に39年に36歳の段階で移動して義務論理の研究や彼女があたためていた多値論理の包括的検討に没頭することができたならば。あるいはどこかの地点で奨学金を手に入れて研究に専念できていたとしたならば。とは誰もが思うはずのライフだと思います。

次回はそんな彼女の学術的業績について義務論理の件はもちろんのこと、いくつかの角度から検討してまとめてみたいと思います。(⇒Randの博論の表紙が!)


*1 (2015) Entwicklung der Thesen des Wiener Kreises Bearbeitet von Rose Rand, Nobember 1932 bis März 1933, In: Stadler F. (eds) Der Wiener Kreis: Ursprung, Entwicklung und Wirkung des Logischen Empirismus im Kontext. Springer, pp.148-50.
*2 “Die Logik der verschiedenen Arten von Sätzen”, Przegląd filozoficzny 39, p. 438.
*3 Kotarbiński Philosophie auf Grand seines Hauptwerkes: ‘Elemente der Erkenntnistheorie, der Logik und der Methodologie der Wissenschaften’”, Erkenntnis 7, pp. 92-120.
*4 T. Kotarbińskis Philosophie” Robert Reininger(主査)/ Richard Meister(副査)
*5 “Die Logik der Forderungssätze”, Internationale Zeitschrift für Theorie des Rechts, Neue Folge, 1, pp. 308-322.
*6 “The Logic of Demand-Sentences”, Synthese 14, pp. 237-254.
*7 About the Law of Inertia, Synthese 13, pp. 350-363.
*8 “Prolegomena to Three-Valued logic”, The Polish Review 13, No. 3, pp. 3-7.

Sunday 13 January 2019

Word and Object Ch.1-1

This familiar desk manifests its presence by resisting my pressures and by deflecting light to my eyes. Physical things generally, however remote, become known to us only through the effects which they help to induce at our sensory surfaces. Yet our common-sense talk of physical things goes forward without benefit of explanations in more intimately sensory terms. Entification begins at arm's length; the points of condensation in the primordial conceptual scheme are things glimpsed, not glimpses. In this there is little cause for wonder. Each of us learns his language from other people, through the observable mouthing of words under conspicuously intersubjective circumstances. Linguistically, and hence conceptually, the things in sharpest focus are the things that are public enough to be talked of publicly, common and conspicuous enough to be talked of often, and near enough to sense to be quickly identified and learned by name; it is to these that words apply first and foremost.
物体の知覚が公共的場面における物体、刺激などに支えられているように、言語の習得もまずは公共的場面における物体、刺激に支えられる。知覚と言語習得の並行性。すでにアフォーダンスのような話が。
Talk of subjective sense qualities comes mainly as a derivative idiom. When one tries to describe a particular sensory quality, he typically resorts to reference to public things -- describing a color as orange or heliotrope, a smell as like that of rotten eggs. Just as one sees his nose best in a mirror, removed to half the optimum focal distance, so also he best identifies his sense data by reflecting them in external objects.
個々人の知覚を説明する場面、つまり知覚と言語の変換関係においても公共的場面における物体が資源として、中継点として利用される。
Impressed with the fact that we know external things only mediately through our senses, philosophers from Berkeley onward have undertaken to strip away the physicalistic conjectures and bare the sense data. Yet even as we try to recapture the data, in all their innocence of interpretation, we find ourselves depending upon sidelong glances into natural science. We may hold, with Berkeley, that the momentary data of vision consist of colors disposed in a spatial manifold of two dimensions; but we come to this conclusion by reasoning from the bidimensionality of the ocular surface, or by noting the illusions which can be engendered by two-dimensional artifacts such as paintings and mirrors, or, more abstractly, simplがy by noting that the interception of light in space must necessarily take place along a surface. Again we may hold that the momentary data of audition are clusters of components each of which is a function of just two variables, pitch and loudness; but not without knowledge of the physical variables of frequency and amplitude in the stimulating string.
センスデータ(感覚与件)説の母体として厳然と影響力をもつ科学(=公共的場面における物体(物理的措定物)の振る舞い方のパターン(の累積かつ集積))の存在。
The motivating insight, viz. that we can know external things only through impacts at our nerve endings, is itself based on our general knowledge of the ways of physical objects -- illuminated desks, reflected light, activated retinas. Small wonder that the quest for sense data should be guided by the same sort of knowledge that prompts it.
センスデータとみなしたいものでさえ公共的場面における物体の振る舞いに依存している(のでthe physicalistic conjecturesを消去するという見かけとは別にthe ways of physical objectsについての知識(=科学)に依拠している)。
Aware of the points thus far set forth, our philosopher may still try, in a spirit of rational reconstruction, to abstract out a pure stream of sense experience and then depict physical doctrine as a means of systematizing the regularities discernible in the stream. He may imagine an idea "protocol language" which, even if in fact learned after common-sense talk of physical things or not at all, is evidentially prior: a fancifully fancyless medium of unvarnished news. Talk of ordinary physical things he would then see as, in principle, a device for simplifying that disorderly account of the passing show.
このパラグラフについては考えることは二つ。まずセンスデータ言語をpriorだと考えてしまう傾向性の背後に何があるのか。感覚というメディウムのあり方が変われば(ドラッグ、お酒、その他)外界の認知が変わるということ、つまりは確実性のレベルである種の懐疑論を生みだす温床がここにはある(つまり懐疑論はそうしたものをpriorだと考える人=哲学者の究極の独りよがりだということもできる)。それに対して否応なく公共的場面における物体の振る舞いが識別できないレベルでセンスデータ言語を可能とする条件に組み込まれていると論じられており、確かにこれは懐疑論の発生をストップさせる安全弁としても結果として機能はする。次に今日の神経科学の技術的な進展を前提にした場合、ここで言われている「プロトコル言語」、つまりは「純粋な感覚の流れ」なるものをダイレクトにコントロールできる状態で(遺伝子改良したマウスについて光学で操作可能、という話はもう10年以上前だけど決定的にブレイクスルー)考えると、実はセンスデータ(言語)という言葉でバークリー以降の哲学者がみたかったものが技術の解像度があがることによって復活しつつあるのではという疑念。もちろん操作的、介入的にしかアクセスできないのも事実であるがゆえに、そうしたものを生のものとして、bare the sense dataはできない可能性は大いにあるが、むしろそうした技術がなかったがゆえに「言語」や「日常的語り」を媒介にしてきた可能性が大いにある(そして語りや言語を媒介にする限りは彼が言うように「公共的場面における物体の振る舞い」が不可避的に介在するだろう)。つまりセンスデータ神話、再びという状況に今はあるはずで、それを可能にしている状況は言語や日常的語りを経由しなくてもセンスデータにアクセスできるようになっているからである(つまり上記引用の斜体になってる部分はQ的には哲学者の過ちだが今日的状況で考えると当時(1959年って60年前か...)の限界を示す箇所でもある(もちろん主語がphilosopherではなくなるが))。すごくトリッキーで、これをワンセンテンスで言える能力こそが哲学者だと思うので、しばし考える。

Saturday 12 January 2019

Mares(2004)からの抜粋訳

バーワイズ&モスの事例(Barwise and Moss 1996)。ハイパーゲームのパラドクスについて考えてみよう(これ自体はZwickerが考案したもの)。標準的なゲームは有限の手が指された後に常に終着する。たとえば三目並べは標準的である。格子が全て埋められればゲームはそこで終着する。一方でハイパーゲームは次のように行われる。初手番は標準的なゲームから一つを選ぶ。すると、その選ばれたゲームが行われる。標準的なゲームの終着が、同時にハイパーゲームの終着でもある。ゆえにハイパーゲームは標準的であるように見える。なぜならばハイパーゲームは初手で選ばれた標準的なゲームの手数より常に1つ多い手で終わるからだ(最初の選択分だけ一手多い)。だがハイパーゲームが標準的であるならば、その初手でハイパーゲームが選択できるように思われる。すると、もしハイパーゲームが初手で選ばれた場合、二手目では(ゲームの選択権が後手番に移動したので)標準的なゲームが選択されねばならない。というのも、もし二手目でもまた後手番がハイパーゲームを選択したとすれば、このやりとりは無際限に続くからだ。このように考えるとき、ハイパーゲームは常に有限数の手のやりとりのうちで終着するわけではないように思われる。つまりは標準的ではないということになる。だがしかし、もしハイパーゲームが標準的でないならば初手としてハイパーゲームを選ぶことはできない。したがって、ハイパーゲームは初手で選ばれた標準的なゲームよりも一手分だけ手が長くなる標準的なものであることが再度わかるように思われるやもしれない。以上より、ハイパーゲームが標準的であるのはそれが標準的ではない場合、そのときに限るということになる。

このパラドクスは標準的なゲームとは何であり、ハイパーゲームとは何であるかのが容易く明示できるがゆえに特に悩ましい。ハイパーゲームのような類のゲームはあるかのように思える。他方で、ハイパーゲーム(なるものがあると仮定すればそれ)は標準的でもあり、かつまた標準的ではないように思える。しかしバーワイズ&モスはパラドクスを述べている文章のうちに多義性の誤謬があると考えている。彼らは二種類のゲームがあると考えており、その混同こそがハイパーゲームの記述のうちに見いだせると考察している。まずゲームの集合をSとする。そしてSを踏まえて定義されるスーパーゲームをS+とする。つまりS+は集合Sからゲームを1つ選択し、それを行うことでプレイされるゲームということである。ここで集合は病的ではない(well-behaved)対象の集まりとする。つまり集合論の諸公理に従う(この場合は基礎の公理の成り立たない集合論(non-well-founded set theory)であるが)。Sが標準的なゲームの集合である場合、S+はSの要素ではないことが示される。一方でSを踏まえて定義されるハイパーゲームをS*とする。つまりS*はSのメンバー内からゲームを選択するか、あるいはS*自身を選択することでプレイされるゲームということである。Sが標準的なゲームの集合である場合、明らかにS+は標準的なゲームだが、S*はそうではない。以上のような議論から学ばれることは、まず標準的なゲームの集まりというのはそれ自身が一つの集合ではなく、その上に築かれるスーパーゲームやハイパーゲームといったものの存在を証明することはできないということである(Barwise and Moss 1996、§12.3)。

基礎の公理が成り立たない集合論を採用するとハイパーゲームはエレガントにモデル化される。標準的なゲームの集合をSとする。するとハイパーゲームS*とは、S* = S U {S*}ということになる。ツリーで示せばS*は次のように表現される。

f:id:StoK:20181108212043j:image:left

標準的なゲームの集合から定義されるハイパーゲームはパラドキシカルな対象ではない。それは単に手数が無限なゲームである。もちろん、標準的な集合論のもとでもこの手数が無限になるハイパーゲームは「ハイパーゲーム」という言葉が反復的に現われる無限列としてモデル化することができる。 しかし、ハイパーゲームがもつ自己参照的な側面は、基礎の公理が成り立たない集合論においてよりクリアに前景化する。

本節ですでに述べたように、数学と計算機科学において基礎の公理の成り立たない集合論が応用されたものがいくつかある。数学における応用としては主に双模倣性(bisimulation)の理論における非常にテクニカルなものがあるが本書では詳細は論じない。だが計算機科学における応用には比較的理解しやすいものがあるので見ていこう。たとえば、基礎の公理の成り立たない集合論を用いるとラベル付き遷移システムをモデル化することができる。プログラムを実行している計算機のような動的システムの展開をモデル化したいとしよう。いずれの時点においても動的システムは「ある状態」にあり、そして「ある行動」がこれから起ころうとしている。バーワイズとモスは、まず状態の集合Sと行動の集合Actをとることからラベル付き遷移システムの理論を定式化している。sとtがそれぞれ「状態」であり、aが「行動」であるとする。状態sからシステム上で可能な遷移の集合をσ(s)とする。対(a、t)がσ(s)にあるとき、システムにしたがって、状態sからスタートし、aの実行後に状態tで終わることが可能である。このときsからtへの遷移にaをラベルするという(sからtへaというラベル付きの状態遷移がある/次のように書かれる)。

f:id:StoK:20181109135639j:image:medium:left 

Relevant Logic: A Philosophical Interpretation, Cambridge University Press, pp.63-5.


Wednesday 9 January 2019

「ピノキオのパラドクス」雑訳

Eldridge-Smith, Peter & Eldridge-Smith, Veronique (2010). The pinocchio paradox. Analysis 70 (2), pp. 212-215.


ピノキオのパラドクス」の雑訳です。前提知識関連として、タルスキについては短いバージョン(「真理の意味論的観点と意味論の基礎」)が勁草書房『現代哲学基本論文集2』に、クリプキについては真理論関係でネット上に講義録やパワポやビーマーが。包括的に知りたい場合には海鳴社『現代真理論の系譜』なる本が。


 嘘つきのパラドクスは直感的に理解できるものだ。「嘘つき」について数年前子供たちに説明したとき、似たようなものを考えてごらんとたずねてみたところ、13歳の息子が次のような例を出した。「警察官が容疑者にお前は嘘をついているのかと問いただしたら、ただ「はい」と容疑者は答えた」。この例がどう作動し、帰結するかはすぐにわかるであろう(ローレンス・ジョナサン・コーエンが考案した「嘘つき」のよく知られたバージョンと同類のものである)。

 11歳の娘がしばらくしてピノキオのパラドクスなるものを考え出した。ピノキオがいう。「僕の鼻はこれから伸びていくでしょう」と。お話によれば、ピノキオの鼻が伸びるのはいつであれピノキオが嘘をついたときである。ここで未来形が用いられているのはピノキオの鼻が伸びるとされているのがピノキオが嘘をついた後という事実に関係している。哲学者であれば「後」とはどのくらい後のことなのかを知りたがるはずだ(嘘をついた後、いつピノキオの鼻が伸び出すべきかについていかなる制約をも与えなかったとしても「嘘つき」の興味深い別バージョンが生じる。ピノキオが「僕の鼻がこれから伸びる」といったとし、この発言も含めてピノキオの述べたことすべてが真実だと仮定しよう。すると、ピノキオの鼻がこれから伸びるのは、ピノキオの鼻が伸びないとき、そのときにかぎる)。

 娘が考えていたのは鼻の伸びという出来事、特にピノキオが発するこの言明を巡る鼻についての出来事だった。すでに十分に明快だと私は思うし、大半の読者にとっても同様であろう。だが現在時制を用いたものの方がいいというならば少し手直しを加えよう。

 ピノキオの鼻が伸びるのは、彼の述べていることが偽であるとき、そのときにかぎる。その上で、ピノキオが「僕の鼻が伸びている」という。とすれば、ピノキオの鼻が伸びているのは、ピノキオの鼻が伸びていないとき、そのときにかぎる。これは明らかに「嘘つき」の一バージョンだ。実際には「本当つき」の変種であることに疑う余地はない。にもかかわらず、先行するものと弁別される特性とは一体なにかといえば、嘘つき文における「は真である」の同義語を用いて生み出されたバージョンではないという点にある。鼻が伸びるということは顔に関する性質であって、意味論的なものではない。さらにいえば、彼が真ではないことを述べているまさにその最中にピノキオの鼻が伸びるとしても言明と鼻の伸びの間にある関係は意味論的なものではない。それは因果的なものになってるのやもしれないし、あるいはそれ以外の性質のものかもしれないが、意味論的な関係ではない。もしピノキオの鼻が伸びているとすれば、その理由は彼が何か偽なことをいっているからだ。そうでなければ伸びはしない。そしてここでの「その理由は」という表現は非意味論的な関係を表している。事実、述語「が伸びている」は述語「は真ではない」の同義語ではなく、語「が伸びている」は異なる意味をもつと装わずともピノキオのお話は理解できる。

 ピノキオのパラドクスは、ある意味では、対象言語から意味論的な諸述語をおそらくは排除する方向での「嘘つき」の解決に対する反例の一つである。というのも語「が伸びている」は意味論的な述語ではない。「嘘つき」に徴候的なパラドクスの原因を分析した結果、タルスキは発生の原因を意味論的な諸述語の対象言語における自由な使用にあると結論付けるに到った。その解決法として彼は意味論的な諸述語をメタ言語にかぎり用いるべしとした。直感的にいえば「が伸びている」のような述語は誰もが豊かな対象言語に含まれていて欲しいと考える類の述語の典型である。もし「嘘つき」の変種を避けるために「が伸びている」のような経験的な述語の使用が対象言語においては制限される必要があるのだとすれば、「嘘つき」種のパラドクスを避けるために対象言語において使用を制限されるべき述語の直感的な線引きがこれまで実は破られてきていたということになる。

 タルスキによる画期的なアプローチはこれまでも他のやり方で批判され、他の理論によって改良されもしてきた。メタ言語と対象言語の階層を厳密に区別することで「嘘つき」を解決する場合の実際上の主な問題点とは余分に多くの述語「は真である」の確定的な使用もメタ言語を用いなければならないことにある。「真である」を対象言語から厳密に締め出す施策はあまりにも狭窄である。なぜならばパラドクスを生みだす原因を除去するために特に問題のない多くの真理述語の用法を対象言語から切り捨ててしまう。クリプキの真理値ギャップアプローチの適用下においては「嘘つき」への対処に厳格ではないメタ言語の階層が用いられるので、パラドクスとは無縁の「真である」を対象言語において有意味なものとして使用できる(Kripke 1975)。真理述語を伴うパラドクス的な言明群であるすべての「嘘つき」のバージョンをクリプキは真理論において扱っている。真理述語の同義語を使用して生み出されるバージョンのパラドクスにも彼のアプローチは当てはまる。そうした一群を指し示す名前として「嘘つきのパラドクス」が用いられてる。

 クリプキの解決法は真理述語の解釈をパラドクスを発生させない真理述語の使用に限定するものだ。これらの使用は安全である。というのも対象言語に属する任意の文の真理値は意味論的な述語を用いていない原子文の真理値に支えられる(基底的だ)からだ。「嘘つき文は真ではない」といった嘘つき文は対象言語に属するが、その真理述語の外延または反外延の要素ではない。この真理述語は部分的に(partially)定義された意味論的な述語である (意味論的ではない述語は十全に定義されているという設定のもと標準的方法で解釈される)。クリプキによる解決はまだメタ言語と対象言語の階層性に依拠している。したがって対象言語に属する嘘つき文は真ではないとメタ言語において述べても差支えがない。またメタ言語に属する嘘つき文は真ではないとメタメタ言語において述べても差支えがない。クリプキのアプローチはタルスキによる解決では対象言語における真理述語の斉一的な扱いがあまりにも狭すぎるという批判に対処しつつ、タルスキによる「嘘つき」の分析を支持することができる。

 ピノキオのパラドクスは、厳格であれリベラルであれ、あらゆる種類のメタ言語的階層性を用いた「嘘つき」の解決に対して純粋に論理的な問題を提起する。ピノキオの筋書きは我らの世界では起こりそうにはないので、このパラドクスは実際上の問題ではない。にもかかわらず、ピノキオが真ではないことを言っているとき、そのときにかぎりピノキオの鼻が伸びる、そんなことが論理的に可能な世界はありうるかもしれないように思える。しかし、ピノキオが「僕の鼻が伸びているよ」と陳述することが論理的に可能な世界はありえない。タルスキの分析に基礎をおくメタ言語的な階層性に基づくアプローチではこれを説明することはできず、つまりは「嘘つき」の一バージョンであるピノキオのパラドクスを解決することは不可能である。

 ありえないことではあるが、このいかんともしがたい不整合な発言をピノキオがするような世界にクリプキ流の解決をなんとか適用すると仮定しよう。ピノキオが述べていること(僕の鼻が伸びているよ)は十全に定義された非意味論的な述語(「が伸びている」)を用いている。 ゆえに彼の言明には真理値が付与されねばならない。結果として、iffで結ばれた双条件文が真理値をもつこととなり、いかんともしがたい不整合、つまり矛盾もこの解釈下で真理値を付与されねばならなくなる。これが(このありえない設定のもとで)どう作動するかの例が次のものとなる。①ピノキオがなにか真ではないことをいうと彼の鼻がすぐさま伸び、かつ、②ピノキオが「僕の鼻が伸びているよ」と述べる、そんなことが論理的に可能な世界があるとする。一方で、もしピノキオの鼻が伸びているならば、彼が述べていることは外延「真である」の要素である。というのも、彼が述べていることは十全に定義されている非意味論的な述語のみを伴うからだ。とすると『「ピノキオの鼻が伸びている」は真である』もまた外延「真である」の要素であり、ゆえに双条件文『ピノキオの鼻が伸びているが真であるのは「ピノキオの鼻が伸びている」は真ではないとき、そのときにかぎる』は偽となるが、これは①を前提にした世界の事実と矛盾する。他方、もしピノキオの鼻が伸びていないならば、彼の述べていることは「真である」の反外延の要素である。だが、もしピノキオの言明が真ではないならば、この想定された世界の設定上、彼の鼻は伸びている。

 私見では「嘘つき」のこのバージョンは必ずしも真理述語に関する真理論にではなく、妥当性によって保存される類の真理を巡る理論に向けられたものだ。だが理想的に言うならば、どちらもおそらくは同じ理論であろう。

文献:Kripke, S. 1975. Outline of a theory of truth. Journal of Philosophy 72: 690–716.

Wednesday 2 January 2019

「存在論的相対性」雑訳(進行中)

Quine, V. W. (1969). Ontological Relativity In: Ontological Relativity and other essays . Columbia University Press, pp. 26-68.


院生時代の1931年春に私はデューイが「経験としての芸術」について語るのを聴講した。デューイはその時ハーバードにおける最初のウィリアム・ジェイムズ講義の講演者だった。私はコロンビア大学で最初のジョン・デューイ講義を今行なうことに栄誉をおぼえている。

 哲学的にいえば、私とデューイを結び付けているのは、彼が晩年三十年において専心していた自然主義である。デューイと共に私もまた、知識に心、そして意味といったものは、それらが関与しているのと同じこの(物理的)世界の一部であり、またそれらは自然科学に息吹を吹き込んでいる経験的精神のもとで研究されるべきものだと考える。それに先立つような哲学に固有の場なるものはどこにもないのである。

 自然主義的な哲学者が心の哲学に取り組む場合、概して言語について語りだすものである。意味とは何よりもまず言語の意味である。言語は社会的な技芸であり、われわれはみなそれを公共的に認知可能な状況下で他の人々がなす目に見える行動だけを根拠として習得する。それゆえ心的存在者の代表格に思われているところの意味なるものは、最終的には行動主義者にとって有用なものとなる。デューイはこの点を明示的に述べている。「意味とは…心的な存在ではない。なによりもまず意味とは行動の特性である」、と。

 われわれが言語という慣例をこうした行動主義という枠組みで理解すれば分かるように、何か有用な意味での私的言語なるものは決してあり得ない。これは1920年代にデューイが強調した点である。「独り言とは他者との会話の産物にして反映である」(p.170)。さらに彼はこの点を以下のように敷衍している。「言語とはつまり少なくとも二人の存在者、話者と聞き手の間の相互作用の一方式である。言語はある組織化された集団を前提とし、言語を営む生物はその集団に属し、またこの集団からその発話の習慣を獲得してきたのである。それゆえ言語とは一つの関係性ということになる」(p.185)。後年のウィトゲンシュタインも私的言語を斥けた。だがデューイがこの自然主義的な筋で言語を考察していた当時、ウィトゲンシュタインはいまだ言語の模写説を主張していたのである。

 様々な形式をもつ言語の模写説は、哲学的な伝統の主流を流れてきたし、また今日の常識的な態度にも近い。単純な意味論は、意味が展示物で単語がその展示物のラベルであるといった展示館の神話の形をもつ。その場合、言語を切り換えることは、ラベルを取り換えることというわけだ。さて、この見解に対する自然主義者の主要な批判は意味なるものが心的存在者だとして説明される点をめぐるものではない。それでも十分に批判となり得るのだが。自然主義者による主要な批判は、たとえラベルが貼りつけられた展示物(つまりは「意味」)なるものが、仮に心的観念ではなく、プラトン的イデアであったり、さらにはラベルで表示された具体的対象だと考えられた場合であったとしても成立する。目に見える明らかな振る舞いや行動に対する当人の傾向性のうちに暗に含意されるであろうことを越えて、誰かにとっての意味論をとにもかくにも当人の心のうちで確定されるものとみなしている限りは、意味論は有害な心理主義に毒されている。行動や振る舞いといったもので解剖されなければならないのは、(言語で)意味される存在者ではなく、まさに意味に関する諸事実なのである。

 ある語を知るということは二つの側面から成り立っている。最初の側面は、その語の音に馴染み、それを自ら真似して作り出すことができるというものである。この音声にまつわる側面は、他の人々の行動を観察し、それを模倣することで到達できるし、この過程に関してはなんらかの重大な(哲学的)錯覚は生じえない。もう一つの側面、それは意味論的な側面であるのだが、こちらはその当該の語の用法を知ることに存する。こちらは典型的な場合においてさえも、音声にまつわる側面より複雑な過程を必要とする。たとえば典型例において、ある語は何らかの目に見える対象を指示する。学習者は、そこにおいて、当該の語を別の話者が発するのを聞くことを通じて、その語の音声的側面を学ぶにとどまるわけにはいかない。学習者は、ある対象に目を向けていなければならず、それに加えて、その対象とその語の間の関連性を捉えるために、その語を発した話者もまたその対象に目を向けていることにも同時に目を向けていなければならない。この点をデューイは次のようにまとめている。「Aの発した音声についてBがその用法を理解する場合に特有の仮説は、BがAの観点からその事物に対応するということである」(p.178)。言語習得の場面において、われわれ各人が隣人の行動や振る舞いに学ぶ生徒である。また逆にいえば、さまざまな試行錯誤が受け入れられたり、訂正されたりする範囲においては、われわれ各人は隣人による行動研究の被験者でもある。

 ゆえにある語を学ぶ際の意味論的な側面というものは、単純な事例においてさえ、音声的側面を把握する過程よりも複雑である。というのも、われわれは他の話者に刺激を与えているものが何であるかに目を向けなければならないからだ。観察可能な特徴を事物に直接的に帰属させるわけではない語の事例においては、その過程はますます複雑かつ不明瞭なものとなる。そしてその場合の不明瞭さこそが心理主義的な意味論の温床となる。自然主義者の力説することはなにかといえば、言語を学ぶ際にいかに複雑かつ不明瞭な側面であろうと、他の話者による明らかに目に見える行動や振る舞いのほかに用いることのできるデータなど学ぶ者は持ちえないということである。

 デューイと共に言語についての自然主義的な見方、そして意味についての行動主義的な見方へと転ずる場合、われわれが放棄するのは単に展示館的な比喩による語り口ばかりではない。われわれは確定性(determinacy)の保証をもまた放棄するのだ。展示館の神話にしたがって見物してみれば、ある一つの言語における語や文といったものはそれぞれに確定的な意味をもっている。ある言語を第一言語としている人が用いる語の意味をわかるためにわれわれは彼の行動や振る舞いを観察しなければならないかもしれないが、だがそれでもなお、語の意味は彼の、つまり、彼の心のうちにある展示館において確定されているものだと考えられている。たとえその語の意味をわかるにあたって行動に基づく基準に依るのでは無力だといった事例であったとしても。他方でデューイと共に「意味とは…第一次的には行動の特性である」と認める場合、われわれは以下のことを認めることとなる。つまり明らかに目に見える行動に対する人々の傾向性のうちに暗に含意されるものを越え出ては、意味などは、さらに意味の類似や意味の区別などといったものはまったく存在しないということを。自然主義の立場からすれば、二つの表現がその意味において似ているか似ていないかいう問いには、その答えが原理的には人々のもつ発話における傾向性(それが既知であろうがなかろうが)によって決めれるという場合でなければ、なんら確定的な答え(それが既知であろうがなかろうが)はない。もしこれらの基準によって不確定的な事例がいくつも存在するのだとすれば、意味ならびに意味の類似といった(意味論を巡る)用語法にとってはなお一層困ることとなる。

 そうした不確定性がいかなるものであるかを理解するために以下のように考えてみよう。英語から遠く隔たった言語でなされるある一つの表現があるとする。その表現は英語において二つの仕方で翻訳することができる。だが英語に翻訳された場合、その二つの表現は意味がそれぞれ異なっており、いずれも同程度に擁護可能であるとする。ここで想定している事態は英語から遠く隔たった当該の表現が現地語の枠内において多義的だということではない。そうではなく現地における当該表現の同一の用法について二つの英語翻訳を与えることができ、どちらも他の語の翻訳による埋め合わせ的な調整によって齟齬なく他の表現の翻訳と調停させられるということである。ここでこの二種類の英語翻訳は、それぞれがそれぞれの調停と連動することで、当該の現地語話者側と英語話者側どちらにとっても観察可能なすべての行動や振る舞いとそれぞれ同等にうまく調和するものと仮定する。またそれらは実際に観察された行動や振る舞いばかりではなく、関連しているすべての話者にとっての行動や振る舞いに対するあらゆる傾向性とも完璧に調和するものと仮定する。こうした状況のもとでは、二つの英語翻訳のどちらか一方が正しいもので、もう片方が間違ってるものだと知ることは永遠に不可能であろう。それでももし展示館の神話なるものが正しいのだとすれば、この件に正誤の決着があることになるだろう。その場合、展示館はあるが利用できないので、単にわれわれがそれを決して知りえないだけということになる。他方で、言語を自然主義的に捉えるならば、こうした事例のうちにおいては意味の類似なる考えは単にばかげたものだとみなさねばならない。

(以下、続く)

Tuesday 1 January 2019

『本の装丁におけるデザイン要素としての影絵と切り絵』よりPaul Konewka節の試訳(進行中)

Steinheider,J. (2014) Schattenbild und Scherenschnitt als Gestaltungsmittel der Buchillustration: Geschichte und Bibliografie (KONTEXT 11), Tectum Wissenschaftsverlag.

 Paul Emil Valentin Konewkaは1840年4月5日グライフスヴァルト (Greifswald) において三人兄弟の末っ子として生まれた。彼の父であるKarl Emil Albert Konewkaはグライフスヴァルト大学の会計監査の職に就くために1830年にグライフスヴァルトへと移住してきた。そしてその地で長年のフィアンセであったJohanna Maria Katharina Michelsと結婚した。兄Carl Albert Tadaeus(1834年生まれ)と姉Marie (1836年生まれ)とPaul Konewkaはとても親しい仲にあり、特に姉とは晩年まで非常に密接な関係にあった。というのも1850年、Paulが10歳の時にすでに母親が死別していたからだ。

 Konewkaの特別な才能は幼少の頃からすでに発揮されていた。ペンと絵筆の代わりに彼は姉の手芸ばさみを手に取り、人間や動物といった彼が目にしているものすべてを黒あるいは白の紙に輪郭で象って切りとっていた。そうした切り抜きをつくることが彼のお気に入りの遊びとなっていた。Konewkaがつくりだした無数の切り抜き像はKonewkaや兄弟、あるいは彼の友人たちがKonewka家の二階でごっこ遊びに興じるのに役立った。彼の父(父自身もまた芸術的な才能をもちあわせていたのだが)そして彼の姉はKonewkaのこの風変わりな才能に気付くこととなり、Konewkaがつくる無数の影絵を捨てずに集めだした。数百の切り抜きの一群に父は次のような題をつけている。「Paulが切り出した無数の像のわずか一部、またそれらは失敗から引き離されたものとして」。

(以下、続く)