Wednesday 2 January 2019

「存在論的相対性」雑訳(進行中)

Quine, V. W. (1969). Ontological Relativity In: Ontological Relativity and other essays . Columbia University Press, pp. 26-68.


院生時代の1931年春に私はデューイが「経験としての芸術」について語るのを聴講した。デューイはその時ハーバードにおける最初のウィリアム・ジェイムズ講義の講演者だった。私はコロンビア大学で最初のジョン・デューイ講義を今行なうことに栄誉をおぼえている。

 哲学的にいえば、私とデューイを結び付けているのは、彼が晩年三十年において専心していた自然主義である。デューイと共に私もまた、知識に心、そして意味といったものは、それらが関与しているのと同じこの(物理的)世界の一部であり、またそれらは自然科学に息吹を吹き込んでいる経験的精神のもとで研究されるべきものだと考える。それに先立つような哲学に固有の場なるものはどこにもないのである。

 自然主義的な哲学者が心の哲学に取り組む場合、概して言語について語りだすものである。意味とは何よりもまず言語の意味である。言語は社会的な技芸であり、われわれはみなそれを公共的に認知可能な状況下で他の人々がなす目に見える行動だけを根拠として習得する。それゆえ心的存在者の代表格に思われているところの意味なるものは、最終的には行動主義者にとって有用なものとなる。デューイはこの点を明示的に述べている。「意味とは…心的な存在ではない。なによりもまず意味とは行動の特性である」、と。

 われわれが言語という慣例をこうした行動主義という枠組みで理解すれば分かるように、何か有用な意味での私的言語なるものは決してあり得ない。これは1920年代にデューイが強調した点である。「独り言とは他者との会話の産物にして反映である」(p.170)。さらに彼はこの点を以下のように敷衍している。「言語とはつまり少なくとも二人の存在者、話者と聞き手の間の相互作用の一方式である。言語はある組織化された集団を前提とし、言語を営む生物はその集団に属し、またこの集団からその発話の習慣を獲得してきたのである。それゆえ言語とは一つの関係性ということになる」(p.185)。後年のウィトゲンシュタインも私的言語を斥けた。だがデューイがこの自然主義的な筋で言語を考察していた当時、ウィトゲンシュタインはいまだ言語の模写説を主張していたのである。

 様々な形式をもつ言語の模写説は、哲学的な伝統の主流を流れてきたし、また今日の常識的な態度にも近い。単純な意味論は、意味が展示物で単語がその展示物のラベルであるといった展示館の神話の形をもつ。その場合、言語を切り換えることは、ラベルを取り換えることというわけだ。さて、この見解に対する自然主義者の主要な批判は意味なるものが心的存在者だとして説明される点をめぐるものではない。それでも十分に批判となり得るのだが。自然主義者による主要な批判は、たとえラベルが貼りつけられた展示物(つまりは「意味」)なるものが、仮に心的観念ではなく、プラトン的イデアであったり、さらにはラベルで表示された具体的対象だと考えられた場合であったとしても成立する。目に見える明らかな振る舞いや行動に対する当人の傾向性のうちに暗に含意されるであろうことを越えて、誰かにとっての意味論をとにもかくにも当人の心のうちで確定されるものとみなしている限りは、意味論は有害な心理主義に毒されている。行動や振る舞いといったもので解剖されなければならないのは、(言語で)意味される存在者ではなく、まさに意味に関する諸事実なのである。

 ある語を知るということは二つの側面から成り立っている。最初の側面は、その語の音に馴染み、それを自ら真似して作り出すことができるというものである。この音声にまつわる側面は、他の人々の行動を観察し、それを模倣することで到達できるし、この過程に関してはなんらかの重大な(哲学的)錯覚は生じえない。もう一つの側面、それは意味論的な側面であるのだが、こちらはその当該の語の用法を知ることに存する。こちらは典型的な場合においてさえも、音声にまつわる側面より複雑な過程を必要とする。たとえば典型例において、ある語は何らかの目に見える対象を指示する。学習者は、そこにおいて、当該の語を別の話者が発するのを聞くことを通じて、その語の音声的側面を学ぶにとどまるわけにはいかない。学習者は、ある対象に目を向けていなければならず、それに加えて、その対象とその語の間の関連性を捉えるために、その語を発した話者もまたその対象に目を向けていることにも同時に目を向けていなければならない。この点をデューイは次のようにまとめている。「Aの発した音声についてBがその用法を理解する場合に特有の仮説は、BがAの観点からその事物に対応するということである」(p.178)。言語習得の場面において、われわれ各人が隣人の行動や振る舞いに学ぶ生徒である。また逆にいえば、さまざまな試行錯誤が受け入れられたり、訂正されたりする範囲においては、われわれ各人は隣人による行動研究の被験者でもある。

 ゆえにある語を学ぶ際の意味論的な側面というものは、単純な事例においてさえ、音声的側面を把握する過程よりも複雑である。というのも、われわれは他の話者に刺激を与えているものが何であるかに目を向けなければならないからだ。観察可能な特徴を事物に直接的に帰属させるわけではない語の事例においては、その過程はますます複雑かつ不明瞭なものとなる。そしてその場合の不明瞭さこそが心理主義的な意味論の温床となる。自然主義者の力説することはなにかといえば、言語を学ぶ際にいかに複雑かつ不明瞭な側面であろうと、他の話者による明らかに目に見える行動や振る舞いのほかに用いることのできるデータなど学ぶ者は持ちえないということである。

 デューイと共に言語についての自然主義的な見方、そして意味についての行動主義的な見方へと転ずる場合、われわれが放棄するのは単に展示館的な比喩による語り口ばかりではない。われわれは確定性(determinacy)の保証をもまた放棄するのだ。展示館の神話にしたがって見物してみれば、ある一つの言語における語や文といったものはそれぞれに確定的な意味をもっている。ある言語を第一言語としている人が用いる語の意味をわかるためにわれわれは彼の行動や振る舞いを観察しなければならないかもしれないが、だがそれでもなお、語の意味は彼の、つまり、彼の心のうちにある展示館において確定されているものだと考えられている。たとえその語の意味をわかるにあたって行動に基づく基準に依るのでは無力だといった事例であったとしても。他方でデューイと共に「意味とは…第一次的には行動の特性である」と認める場合、われわれは以下のことを認めることとなる。つまり明らかに目に見える行動に対する人々の傾向性のうちに暗に含意されるものを越え出ては、意味などは、さらに意味の類似や意味の区別などといったものはまったく存在しないということを。自然主義の立場からすれば、二つの表現がその意味において似ているか似ていないかいう問いには、その答えが原理的には人々のもつ発話における傾向性(それが既知であろうがなかろうが)によって決めれるという場合でなければ、なんら確定的な答え(それが既知であろうがなかろうが)はない。もしこれらの基準によって不確定的な事例がいくつも存在するのだとすれば、意味ならびに意味の類似といった(意味論を巡る)用語法にとってはなお一層困ることとなる。

 そうした不確定性がいかなるものであるかを理解するために以下のように考えてみよう。英語から遠く隔たった言語でなされるある一つの表現があるとする。その表現は英語において二つの仕方で翻訳することができる。だが英語に翻訳された場合、その二つの表現は意味がそれぞれ異なっており、いずれも同程度に擁護可能であるとする。ここで想定している事態は英語から遠く隔たった当該の表現が現地語の枠内において多義的だということではない。そうではなく現地における当該表現の同一の用法について二つの英語翻訳を与えることができ、どちらも他の語の翻訳による埋め合わせ的な調整によって齟齬なく他の表現の翻訳と調停させられるということである。ここでこの二種類の英語翻訳は、それぞれがそれぞれの調停と連動することで、当該の現地語話者側と英語話者側どちらにとっても観察可能なすべての行動や振る舞いとそれぞれ同等にうまく調和するものと仮定する。またそれらは実際に観察された行動や振る舞いばかりではなく、関連しているすべての話者にとっての行動や振る舞いに対するあらゆる傾向性とも完璧に調和するものと仮定する。こうした状況のもとでは、二つの英語翻訳のどちらか一方が正しいもので、もう片方が間違ってるものだと知ることは永遠に不可能であろう。それでももし展示館の神話なるものが正しいのだとすれば、この件に正誤の決着があることになるだろう。その場合、展示館はあるが利用できないので、単にわれわれがそれを決して知りえないだけということになる。他方で、言語を自然主義的に捉えるならば、こうした事例のうちにおいては意味の類似なる考えは単にばかげたものだとみなさねばならない。

(以下、続く)

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