Wednesday 16 January 2019

Rose Randについて(その一:人生編)

  • Hamacher-Hermes A. (2003) Rose Rand: a Woman in Logic. In: Stadler F. (eds) The Vienna Circle and Logical Empiricism. Vienna Circle Institute Yearbook, vol 10. Springer, Dordrecht
  • Rentetzi M. (2009) ‘I Want to Look Like a Lady, Not Like a Factory Worker’ Rose Rand, a Woman Philosopher of the Vienna Circle. In: Suárez M., Dorato M., Rédei M. (eds) EPSA Epistemology and Methodology of Science. Springer, Dordrecht  
  • Giuseppe L. (1997) Deontica in Rose Rand. Rivista internazionale di filosofia del diritto 74, pp. 197-251.
以上の三つの論文を読みました。

ウィーン学団の最年少に近いメンバー(一般的には公聴人としてある時期の会合の議題内容の速記(*1)をとっていた秘書的存在とみなされてきた)にして哲学者、論理学者。性別、人種といった様々な属性とともに時代の趨勢に巻き込まれる形で研究者として公的なポストに着くことはできなかったRose Rand(ローゼ・ラント)。ピッツバーグ大学のアーカイブに収蔵されている彼女の様々な史料や文章、公的・私的書類に近年アクセスできるようになり、研究が進められているようですが、おおよそ知られていない彼女とは一体どのような人物であり、どのような遍歴を経たのか、そしてまたどのような仕事を残したのか、簡単にまとめておきます。今回は履歴を中心に。

 Rose Randは1903年に現在はウクライナのルブフ(リヴィウ)生まれ(当時はオーストリア帝国下レンベルク)。第一次世界大戦終了後にポーランド領になった時点でユダヤ人のディアスポラだったルブフからウィーンへと移住する。

  ウィーン大学の哲学科に進学したのは24年(671人(全学生のうちの35%/赤いウィーンと呼ばれた社会民主義的気運のもと女性の進学率を高める政策がとられていた)中の1人)。Robert Reininger、Moritz Schlick,、Hans Hahn、Heinrich Gomperz、Rudolf Carnapといった面々の講義に出席する一方で、Karl Bühlerの論理学ならびに心理学の講義にも参加。また副専攻で物理学を修める。

 この当時、オーストリアでは社会民主党が政権を担い(1918年から34年まで)「赤いウィーン」と称された都市計画のもと、公共福祉、住環境の整備、学術の振興などを巡る民主的施策がとられていた。この気風の下、多くの知識人のサークルが活発に活動をし、特に独で高まりつつあったナショナリズムへの対抗意識を一つの共通戦線として自由な政治活動と学問上の革新運動が手を結んで歩みを進める現象が起こっていた。その中の一つがウィーン学団であった。

 主要メンバーはMoritz Schlick、Rudolf Carnap、Viktor Kraft、Hans Hahn、Felix Kaufman、Kurt Reidemeister、Philip Frank、Otto Neurathといった面々。彼らの経験主義、科学主義を前提にした「哲学をどのように遂行していくか」を巡る反形而上学的な討論傾向は当時のウィーン大学を覆っていたキリスト教神学とドイツ観念論を中心とする保守的な学術思潮と真っ向から対立していた。学団はシュリックがウィーン大のポストに就任した1922年に創設、24年前後から定期的な会合をもち、互いの哲学的関心や研究の進展について議論を行う場となる。Randはこの定期的会合に唯一定例参加者メンバーとして名前が記録されている女性メンバーであった(彼女以外にも数学者でNeurathの妻となるOlga Hahn(Hans Hahnの妹)や代数的整数論で名を残すことになるOlga Taussky-Todd、心理学者Else Frenkel(Karl Bühlerの弟子)なども何度か参加していた)。

 Randはすでに20年代後半からSchlickに許可されて学団の私的な会合に出入りが認められていた。28年に哲学で学士号を修得後、家庭教師や後述の診療所での仕事、ポーランド人(後述するがLW学派の面々)が書いた論理学の論文翻訳をSpringerに売り込むなどといった仕事で生計を立てつつ、博論の主査となるRobert Reiningerに才能を称賛され、論文準備のためにLW学派のTadeusz Kotarbińskiの科学哲学に関する著作の研究を開始する。33-4年にウィーン学団の会合で研究の進捗に関する講義を何度か行う。36年にクラクフの哲学会議に一般参加し、今日的に言えば義務論理(deontic logic)や問答論理(erotetic logic)に類する議論(命令や欲求、質問といったいわゆる言語行為的な発話表現の振る舞いを表現する論理体系を通常の体系から類比的に作り出せるかという問いについて)を学会発表、同年ポーランドの雑誌に発表要旨の掲載(*2)。37年に博論執筆原稿の中から一部を分割掲載(*3)。38年に博士号を取得している(*4)。この間、30-7年にかけて上述のKarl Bühler関連の心理学研究グループとも深くコンタクトをもち、心理学や精神科学、精神分析についても研究を行うと同時に、特に精神疾患や(今日的言葉で言えば)メンタルヘルス関連の診療所において患者のケアや診療、診察などに従事し、臨床系の優れた才能を発揮していた。

 しかし1938年のドイツによるオーストリア併合、そしていわゆる強制的同一化の流れの下、ユダヤ人だったRandはNeurath、Frank、Carnapといった面々のレコメンデ―ションレターのもとでアメリカ留学に向けて奨学金を申請するが失敗。この時期、Leśniewskiの論文草稿の翻訳ならびに紹介を試みたり、36年にクラクフで発表した義務論理に関する論文を切羽詰まった状況下でCarnapからのアドバイスを受けつつ完成させる(*5/後に英語バージョンがSyntheseに(*6))。この論文は義務論理の出発地点とされているVon WrightによるDeontic Logic(51年)に12年先行するものであった(として今日的には義務論理研究者に評価されている)。その後、Neurathならびにウイーン学団とつながりのあったSusan Stebbingの助力で39年に英国への亡命を余儀なくされる。以降、Neurathが急逝する1945年まで折にふれ身辺事情の相談を中心とした書簡のやりとりが行われている。

 英国でアカデミックポジションを探すもうまくいかず、奨学金もウイーン学団の面々から推薦を受けるも手に入らず。生活のために看護士と工場労働に従事して食いつなぐことになる。 困窮が極まり、夜学校でドイツ語と心理学を教える仕事も増やし、ポーランド語の文献やドイツ語の文献の翻訳を出版社に売り込むことで生活を続ける。その間も哲学や論理学の論文、あるいはLW学派の論文紹介といった学術研究は続けられた。例えばLeśniewskiの翻訳に関するコンサルテーションの関係で博論で扱ったKotarbińskiと知己を得たり(39年)、Wittgensteinについての講義をOxfordで行ったり(41年)。またモラルサイエンスクラブの会合にも定期的に参加し、Wittgensteinの講義にも参加し続けていた(40-43年)。しかし43年についに生活を続けるための労働の苦労と研究活動の狭間で心身を壊し、入院を余儀なくされる。

 この時期の彼女の中心的な仕事は朝8時から夕方6時まで工場で部品の検品を延々とするものであった。時間がほぼなく己の研究ができなかったことに辛さを感じていたのか NeurathがCarnapの著作でRandが言及されていることを伝えてきて、何かコメントを出してはどうかという手紙での提案に対しても「ほんの少しのことならば、あなたがそれを求めるならば、何か書きます。なにかの(学術的な)立場にいれば私は哲学について専心できるはずです。でもそうした欲望も今では自ら押しつぶしています」という応答しかできない状況であった。こうした状況下でもWittgensteinはRandに工場労働を続けるように忠告していた。その理由は彼女が英国で学術ポジションを得ることは難しいと理解していたからでもあり、同時に哲学で生きていくということに対する(彼の弟子全般へのものと同じ)警告の意味でもあった。他方で彼女は「戦争が終わり平和になりWittgensteinとの学術的な関係が続く限りは哲学とはまだつながっていけると思う」といった類の文面をNeurathに送っている。しかし、この書簡のやり取りも45年Neurathが亡くなる5日前に彼女に送った「どんなものでも最近の著作や論文に関して書いたものがあれば雑誌にかけあうのでいつでも送ってくれ」という言葉を最後に終わることとなる。

 54年にアメリカに移住するが既に51歳になっていた彼女を雇う大学はなかった。その間も研究や学術翻訳には熱心な態度で臨んでいた。しかし散発的に続けられたLW学派のŁukasiewicz、Leśniewski、Kotarbiński等の著作や論文翻訳の出版プロジェクトは1956年に金銭的理由と出版社との契約の失敗によって一旦頓挫することになる(英国滞在時からかけあってきた現在のElsevierにあたるNorth-Holland Publishing Companyとの契約に失敗)。また渡米後は大学の非常勤の職もみつけることができず、55-56年にUniversity of Chicagoにて数学を教えたものの、1957-9年の間はNotre Dame Universityで(ほぼ無給の)研究員となり、頓挫した翻訳プロジェクトを継続すべく奨学金を幾つかの学術団体に応募する日々となる。

 そのような日々の中で1962年にKotarbińskiのゲストとして4カ月ポーランド科学アカデミーの研究員としてワルシャワに滞在。滞在期間中にFregeの論文(*7)の翻訳、前述した義務論理の論文の英訳(*6)などを集中的に行う。またŁukasiewicz、Leśniewski、Chwistekなどの著作を整理し直し、Fregeに始まる論理学の歴史の別の水脈としてポーランドの論理学の歴史を描こうと矛盾律、排中律、多値論理の関係についてまとめ、「記号を何かを表現する道具ではなく、記号それ自体を対象とみなして、その振る舞いを哲学の観点から分析する」営みを描くべく、翻訳プロジェクトの申請を行っている。

 こうした彼女のプロジェクト申請や研究費獲得の試みを支えていたのはPrinceton大学でギリシア哲学、特にソクラテス、プラトン研究を行っていたGregory Vlastosであった。もともとWhiteheadを指導教官とし、分析哲学の方法論を修得した上で古典研究を行っていたVlastosは特にŁukasiewiczによる著作『アリストテレスの矛盾律』の理解と翻訳において彼女を議論の相手として重宝していた。Vlastosは彼女の能力を高く評価しており、また当時のアメリカの哲学界において(Tarski等ダイレクトな関係者以外で)ポーランド語と論理学の双方を学術レベルで厳密にかつ批判的に運用できる人材がほぼいなかったという事実もあり、彼女の研究を積極的にサポートしていた。

 Randは1968年にプロジェクト形式で進めてきた学術作業の総決算にのりだす。Łukasiewicz、Leśniewski、Kotarbiński、Chwistek等を比較検討して、翻訳とともに紹介するはずだった多値論理についてのプロジェクトの内容紹介ならびに翻訳を雑誌に発表(*8)、同時にJournal of Symbolic LogicにてŁukasiewiczやSłupeckiの著作レビューを7本発表。結局、彼女自身がオリジナルで残した論文は初期の義務論理に関する論稿1本(とその英訳)、Kotarbińskiに関する博士論文からの分割掲載が1本、そしてこの最後の多値論理に関する翻訳の前書き1本の計3本であった。

 1980年に77歳で亡くなるまで研究自体を止めることはなかったが、他方で生活には苦しみ続け、低額ローンに薄給の研究費、一時的なパートにフリーランスの翻訳仕事などを繰り返す中で生涯を終えることとなった。
 
 上述論文の著者RentetziはRandの哲学者としてのキャリアが流された理由として①学団のメンバーの多くがすでにキャリアを積んでいた一方で、後続をどのように育成するか(教育)の側面において必ずしもサポータティブではなかった件、②女性のユダヤ人の亡命者であった件、③赤いウィーン期の心理学研究グループや学団がもちあわせていた女性の社会進出に対する進歩的な雰囲気と英国における階級的問題が醸し出す閉鎖性のギャップに打ちのめされた件、そして④彼女の性格の難しさなどをあげている。②は確かにそうだろうなと推察できます。また③は社会構造の問題ゆえに②に限りなく近いはずです。残りは①と④ですが、学団も学団でドイツの侵攻によって文字通りバラバラにさせられたことを鑑みると(もちろん研究優先主義だったことも事実だとは思うんですが)決定的な要因とも言い切れない気がします。またNeurath個人の資質によるものとはいえ皆が皆サポートに冷淡であったわけではなく、むしろ英国へ渡ってからの15年ほどの間でウィーン期とは別に学術的な結果をダイレクトには表現できなかったことも一因なのかもしれません(もちろん工場労働をしつつ、講義にも参加しつつ、心身を壊しつつ、亡命しつつといった複合要因の中にいたことも事実ですが⇒ここら辺は彼女のWittgensteinに関するノートや発表原稿を細かく検討してみる必要がありそうです。つまり「英国期はRandにとってどのような意味をもっていたのか」という視点で)。

 素直に考えればオーストリア併合によって亡命せざるをえなかったキャリアをまさにこれから積み上げてゆこうとしている博士号取得直後のユダヤ人女性という属性、そしてポストの少なさこそが最大の要因なのではないかと思います。ただし、もし彼女が英国ではなく米国に39年に36歳の段階で移動して義務論理の研究や彼女があたためていた多値論理の包括的検討に没頭することができたならば。あるいはどこかの地点で奨学金を手に入れて研究に専念できていたとしたならば。とは誰もが思うはずのライフだと思います。

次回はそんな彼女の学術的業績について義務論理の件はもちろんのこと、いくつかの角度から検討してまとめてみたいと思います。(⇒Randの博論の表紙が!)


*1 (2015) Entwicklung der Thesen des Wiener Kreises Bearbeitet von Rose Rand, Nobember 1932 bis März 1933, In: Stadler F. (eds) Der Wiener Kreis: Ursprung, Entwicklung und Wirkung des Logischen Empirismus im Kontext. Springer, pp.148-50.
*2 “Die Logik der verschiedenen Arten von Sätzen”, Przegląd filozoficzny 39, p. 438.
*3 Kotarbiński Philosophie auf Grand seines Hauptwerkes: ‘Elemente der Erkenntnistheorie, der Logik und der Methodologie der Wissenschaften’”, Erkenntnis 7, pp. 92-120.
*4 T. Kotarbińskis Philosophie” Robert Reininger(主査)/ Richard Meister(副査)
*5 “Die Logik der Forderungssätze”, Internationale Zeitschrift für Theorie des Rechts, Neue Folge, 1, pp. 308-322.
*6 “The Logic of Demand-Sentences”, Synthese 14, pp. 237-254.
*7 About the Law of Inertia, Synthese 13, pp. 350-363.
*8 “Prolegomena to Three-Valued logic”, The Polish Review 13, No. 3, pp. 3-7.

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